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ロッキー岩川の脳出血後遺症との共存生活;夜に見る夢;

脳出血後遺症との共存生活;夜に見る夢(2)

    (副題;中国の社会事情)


さて既に6月です。


先月、即ち5月は非常に早く過ぎて行った様でもあり、

また逆に過ぎ去るのが遅く感じた月でもありました。


新元号になって以降、日本中が大騒ぎをしているのを見るにつけ、

日本人の特徴を垣間見た思いでした。


一つには非常におっちょこちょいの性格で、

第二にのり易く、扇動されやすい国民だとつくずく思いました。

バカ騒ぎし過ぎです。


その典型例が渋谷でのハローウインのバカ騒ぎです。

自国の伝統行事でも何でも無いのに、この若者のバカ騒ぎはどうしたことでしょうか?

呆れるばかりです。


この国民性では、ヒトラーみたいな扇動上手で、弁舌が巧みな政治家が出てくると、

一発でのせられてしまうのではないかと危惧してしまいました。


またトランプの来日でも大騒ぎでしたね。

これはマスコミだけが騒いでいたのかも知れません。


加えて、真夏の様な猛暑にも列島が襲われてしまいました。

先月のブログで記述した世界的な危機的状況の一つである2030年問題、

即ち、地球温暖化による地球滅亡の危機が迫ってきている事を、

思い知らせる猛暑が襲ってくる予兆の様な気がしました。


暖冬によって冬に死滅するはずの虫類が生き残って、

異常発生して農作物を喰い荒らしてしまう事態も発生しています。

自然の摂理を人間が壊しています。


先月のブログで危機的状況をお知らせしたマイクロプラスティックによる

海洋汚染の問題は本当に深刻です。


漸く今回の「G20」での議題に上るようですが遅すぎます。

事態は非常に深刻です。


即刻レジ袋は「紙製」に切り替えるべきですし、

ペットボトルはスティール缶や、アルミ缶、あるいはガラスの容器に切り替えるべきです。

これらの容器は「分別」して、再生して利用しなければなりません。


世界中がプラスティックのゴミで溢れて、上述の海洋汚染が更に深刻になって、

魚介類が死滅し、また、その時が迫ってくる恐ろしい時代に突入します。


宇宙も地球も全てが「ゴミ」で溢れてしまって、

地球温暖化により、緑や森林が無くなって、農作物の不作が続いて干ばつが常態化し、

砂漠が拡大して、南極、北極の氷が溶けて、海水位が上昇して消滅する国も出てくる始末です。


地球は飛んでも無い方向に向かっています。

本当に困ったことだと思っております。


5月は、またまた悲惨な事件も起きてしまいました。

無謀な運転による幼い命が奪われれ、

気違いによる殺傷事件が発生して、本当に胸が痛む思いがしました。


令和に入って早々に、ことほど左様に、

様々な事件や事態が発生して飛んでも無い新元号の幕開けとなりました。


以後、平穏な状況が作り上げられて行くことを心より願っています。


ところで、5月の思い出として、楽しい思い出が個人的にありました。

512日の日曜日、「母の日」の事です。


以前は「母の日」には両方の母親に、花を送っていましたが、

今は、両方の母親共に神様の元へ行ってしまっており、もうこの習慣は無くなりました。


今や、こちら側だけが一方的に「花」を送られる立場になってしまっています。

このことが自分たち夫婦がいよいよの時期に近くなっている事を自覚させられる事象にもなっています。


覚悟は出来ていますし、この為の準備も少しずつ始めました。


さて、先月の「母の日」はいつに無く、陽気が適度で、

長袖のシャツ一枚で外出するのに丁度良い気温でした。


家内も同じように感じたのか、私に「ちょっと近所に散歩でもしますか?」と聞いてきました。

珍しい事があるものだと思いましたが、おくびにも出さずに、

「行く、行く」と二つ返事をしました。

丁度午後2時を過ぎた頃でした。


汗をかくことも無く、近所の神田川沿いの道を家内に車いすを押して貰って、

我が家から一つ渋谷寄りの電車の駅まで、即ち「浜田山」の駅まで散歩してきました。


家内は総重量80KG位の車いすを押しての散歩ですから大変だったと思います。

お互いに70歳を過ぎていますので、散歩に行くのも大変です。

特に坂道を押して貰うのには気が引けました。


70過ぎの婆さんが坂道を80㎏以上の車いすを押して歩くのですから大変だったでしょう。

目的の高井戸中学校に向かって浜田山の坂道を二人で車椅子を押しながら歩いて行くのでした。


古希を過ぎた婆さんが汗をかきかき、「ヨイショ、ヨイショ」と、掛け声を掛けながら、

高井戸中学校までの坂道を、爺さんを乗せた車椅子を押して行くのでした。


高井戸中学校にたどり着いたときは、流石に家内も息が切れていました。


それでも頑張って車いすを押してくれていましたので、本当に頭が下がりました。

本当に重かった事でしょう。


私は嬉しくて家内に感謝の意味を込めて一緒に写真を撮ろうと申し出ましたが、

家内は「婆さん顔」を撮られるのは嫌だと言う事で、

私一人での写真をバラの花を背景に撮ってくれました。


とても嬉しい瞬間でした。


高井戸中学校では、当日は「バラ園」を一般に開放しており、

また「バラ」が満開になっていて、結構な人が観賞に訪れていました。


二人で中学校のバラ園を堪能して帰って来ました。

バラの花を心行くまで堪能したのは久しぶりの事で、少々感激した次第です。


さて、今年も6月に「梅雨」に入るそうです。  

この時期は障害者、車椅子利用者にとっては最悪の季節です。

雨は車椅子の利用者にとっては大敵です。


介助する方も、される方も共に傘をさせないので、

濡れた状態で車いすでの移動を余儀なくさせられるからです。


私の場合は、週に2回病院に通ってのリハビリがありますが、

この時、長男の車を利用して通院していますので、

車に乗り降りする時にどうしても濡れる事になります。


自宅の駐車場に停めてある車に乗り込む時に、

駐車場が青空駐車場の為に、どうしても濡れてしまいます。


雨が降っていると私も長男も共にずぶ濡れです。


今年の「梅雨」が大雨にならないことを祈るだけです。

また梅雨の期間が短い事を祈るだけです。


私の記憶では、関東地方は、昨年の「梅雨」は余り雨が降らなかった様な気がしていますが、

記憶違いでしょうか?


西日本地区では大雨の被害がひどくて多数の死者がでる大災害が発生しました。


被災者の方々には心よりお見舞い申し上げます。

今年はこのような災害が起きない事を祈るだけです。


しかし、先月のブログで記述したように、確実に地球温暖化は進展しており、

大災害が発生する確率は毎年上がってきています。


2030年問題が確実に近ずいて来ています。

全世界の人々や国々がこの問題(2030年問題)を真剣に考えて、

地球温暖化防止に向けて真剣に取り組まなければ、いずれ地球は自ら滅びる事になります。


私たちの孫の世代に不幸が訪れないように今行動を真剣に起こさなければなりません。


さて、今月私は誕生日を迎えますが、確実に体力の衰えを感じ取っております。

「耳」、「目」、「歯」、の衰えは着実に起こっています。


「耳」は聞こえにくくなっており、「目」は視力の衰えが急で、「歯」は虫歯が増えてきています。


先日NHKの番組で「歯」の衰えに付いての話があって、

「歯磨き」のやり方を教えておりましたが、目からうろこの話でした。


今まで、私が約70年間やってきていた「歯磨き」は、

全く間違っていたことが分かったのでびっくりでした。


殆どの日本人が間違った「歯磨き」をやっているとの事で、全くの驚きの事実が判明したのでした。


ポイントは3つです。


① 歯間ブラシを利用して、歯の間のごみをよくとる事


② ブラッシングは隅々までよく磨く事


③ 歯磨き粉は大目に付けること。約2cm はつける事

  そして磨いた後は、水で口をゆすがない事


以上でした。


この3条件のうち、私は前半の2条件は実行していましたが、最後の3条件目はやっていませんでした、


むしろ反対で、歯磨き後は口を丁寧に何回も、多分4回以上ゆすいでいました。

おまけに丁寧にゆすいでいました。


要は「歯磨き粉」に含まれる「フッ素」を「歯」にコーティングする必要があり、

水で口をゆすぐとせっかくの「フッ素」が流れ出してしまって、

フッ素のコーティングが出来ないとの事でした。


歯磨きの後は最低2時間は口をゆすがずにそのままにしておく必要があるとの事で、

全くこのことは知りませんでした。

目からうろこでした。


多分、私のブログをお読みの方々もご存じ無いと思います。

将来、虫歯になりたく無ければ、是非この「歯磨き法」を実践されることをお勧め致します。


さて次は、夜に見る夢の「第二話」です。


この話は実際にあった話で私が人生で最初に仕事で海外赴任した中国で経験した話です。


この話も苦労話です。


私は中国に仕事で2度赴任しております。

夫々約23年間です。


最初は1993年の春ごろからと2回目は2010年秋頃からの2回です。

2回ともに新会社の設立と工場の建設と立ち上げです。

そして2回ともに、赴任期間は3年弱です。


この夢の話は第1回目の中国赴任時の話です。


これは私が本社の課長時代に、中国の広州に鉄鋼の2次製品を作る会社を合弁で設立して、

工場を建設して初代総経理(社長)として会社の運営に携わっていた時代に、

苦労した話の一場面を夢に見る話です。


この場面は急に訳の分からない病気を患って中国の広州のホテルでうなっている場面の話です。

いつも同じ場面です。

全く同じ場面を夢に見ます。


当時はこのプロジェクトの初期段階で、新会社設立の為に、

フィージビリティースタディーを実施しており、日本の本社から、中国に出張中でした。


中国の広州を拠点にスタディーをしており、香港に出張していました。


出張先の香港で、何か訳の分からない病気に掛かってしまい、

高熱が出て下痢の症状で、たまらず香港のホテルで休んでうなって寝転んでいました。


自分でも風邪では無いなと言う自覚がありました。


後々知った事ですが、この病気は中国南部の風土病だと言う事です。

高熱が出て、下痢の症状です。

咳等は出ずに、鼻水などの症状もありません。


身体全体が消耗してきて食事も出来ず、

唯々うなってベッドに横になっているしか出来ない状態に置かれてしまいます。

人によっては猛烈な「吐き気」に襲われる場合もあります。


完全に気力が失せてしまいます。ひどい風土病です。

この状態が約1週間ほど続きます。


一週間程続いた後に、何事も無かったかの様にケロッと治るのです。

そして、この病気の免疫が出来て、二度と罹患する事はありません。


中国南部の風土病で、出張者や駐在員がよく罹患します。


丁度この病気に掛かって香港のホテルで休んでいると言うかうなっている時に、

日本の本社から連絡があって、病気に掛かって、ホテルで休んでいると言うと、

「何を怠けているんだ!」と電話で叱られて、踏んだり蹴ったりの有様でした。


全く身体が言う事を聞かずどうしようもありませんでしたが、

当時はインターネットも無くて、国際的に通話が出来る携帯電話も無い時代です。


ホテルからオペレーターを介しての国際電話でしか情報の交換が出来ない時代でしたので、

本社では私の状況が理解出来ずに、さぼっているとしか見ていない状況だったのでしょう。


何せたった一人での出張なので、知った人も居なくて、言葉も通じずに、

かろうじて薬局に行って英語で話をするも広東語でしか通じず、困り果てていました。


(中国の南部地方は、香港も含めて中国の標準語「北京語をベースにした普通語」が、

当時は、全く通じませんでした。いわゆる広東語しか通じない世界です。

今では若い人を中心に普通語は随分話せる人が多くなっています。)


広東語と北京語では全く違う言語でして、

広東人と北京語を話す北方民族とは通訳を介しないと同じ中国人でも会話が成立しないのです。


この時代、ましてや英語なんて通じる筈もありません。

この状況から早く抜け出さねばと思って、

拠点にしていた中国の広州のホテル迄列車で何とか戻ろうと決心しました。


そして、ほうほうの体で何とか広州のホテル迄戻って来る事が出来ました。

この広州までの列車の旅は想像を絶するほどの辛い旅でした。

本当に大変な苦労をして香港から広州迄戻って来たのでした。


一人で言葉も通じない所で1か月以上も長期の出張をしているのですから、色々な事が発生します。

また、当時はインターネッットも無く、携帯電話も普及していない時代で、

全く不便な時代でしたので、ましてや、

日本の本社サイドは中国の特殊事情等理解している筈も無く、

私がホテルでさぼっているとしか思っていない状況ですので、最悪でした。


漸く広州の定宿にしているホテルにたどり着いて、助けを求めて、

広州に存在する香港現地法人の出張所に窮状を訴えました。

何とか助けに来てもらう事で了解を得ました。(これら全ては英語です。)


誰か事務員を差し向けてくれる事になったのでした。

現地法人の広州事務所に勤務していた中国人の女性の事務員で、

ニックネームが「ミス.グリーン」と言う女性が早速ホテルの部屋に売薬を持参して見に来てくれました。

彼女はよく英語を話せる賢い中国人でした。


私より英語の会話力は上でした。

その時の彼女が「何と頼もしい存在」に見えた事か!です。


しばらく私を看病するようにして部屋に留まっていてくれたのを思い出します。


そして、次のシーンをよく夢に見ます。


夢の内容;


私は、ホテルのベッドの上でうなって寝ている状態で、

何とか、彼女が持参してきてくれた売薬を飲んで横になっている状態でした。


彼女の方は直ぐに帰る訳にもいかず暫く私の状態を見極める様にして、

部屋の窓の近くに立って私の様子を観察していました。

彼女は窓の外に向かってジーット外の庭を眺めていました。

彼女は後ろ姿を私の方に見せていました。


彼女が天使に見えました。

彼女はその時何を思って窓の外をジーット見つめていたのでしょうか?


早く事務所に戻りたいけれども、うめいて苦しんでいる見知らぬ外人、

また病人を放っておいて帰る訳にも行かないと迷っていたのでしょうか?


私が望んだ事はただ一つです。

この苦しい状況下に置かれている自分を放っておかないで、

また暫くは部屋に居ていて欲しいと言う事でした。


兎に角、暫く此の侭背を向けている状態でも良いので、

此の侭この部屋に留まって、出て行かないで欲しいと言う事でした。


このシーンは何度も夢に見ます。


その時の私は、余程弱気になっていたのでしょう。

その女性は、私の気持ちを理解したのか、そのまま30分ほど私の部屋に留まっていてくれました。

気の利く優しい女性でした。薬は解熱剤だったと思います。


丸二日近く、横になっていたところで、何とか立ち上がれる状態にまで回復してきました。

下痢も治り、体力回復の為に、このホテルの食堂に下りて、おかゆを食べた事を思い出しました。


翌日から香港現地法人の広州事務所の一角をお借りして、早速出張の仕事に取り掛かりました。


よく見る夢というのは前述した彼女がお見舞いに来てくれたシーンです。


余程印象に残っているのでしょう。  

何度も同じシーンの夢を見ます。

そして、夢の中で感激して涙ぐんでいます。


その後ミスグリーンとは仲良くなりました。

私のフィージビリティースタディーの支援をするようにと、

香港の現地法人の上司から命令が下って、私の補佐をしてくれることになったからでした。


一緒に調査の為に34日の列車を利用した出張までしたこともあります。

確か、広州から香港経由で飛行機で、上海に行き、上海から南昌まで列車で旅をしました。


この列車の旅は最悪だった記憶があります。

当時の中国の列車の旅の環境は劣悪でして、寝台車だったのですが、

この列車が劣悪の環境で非常に参った記憶があります。


2度と中国で列車の旅はしないと思ったほどです。

しかし、彼女は平気そうでしたので、当時の中国人にとっては当たり前の事だったのでしょう、、、。


ところで、夢の話とは横道に逸れた話になってしまいますが、

当時の中国事情を少々お話しましょう。


1993年―1995年に掛けての話ですから、

今から25年以上前の話になりますので、今とは随分違った様相でした。


前述しました様に、当時はインターネットも無くて携帯電話の出始めで、

その携帯電話と言えば今の若い人には信じられないかも知れませんが、

メーカーはNOKIA」製で、重くて非常に使いにくいものでした。

日本ではまだまだ普及しておらず、まだポケベルの時代だったでしょうか?


香港は時代の先端を走っていて、この「ノキア」製の重くて使い難い携帯電話が随分普及していました。

香港に近い「深圳」や「広州」では高級ビジネスマンが使用していました。


丁度、1993年に「鄧小平」が南方講和を行って、「改革開放」を唱えた時期で、

いたるところに「鄧小平」の非常に大きな看板が掲げられていて、

大きく「南方講和」と言う4文字が踊っていました。


広東省は、あちらこちらが掘りくり返されていて、赤土の砂ぼこりが舞っていました。

舗装道路は少なくて、雨が降ると泥んこの道になって、車が立ち往生するのもしばしばでした。

この様な不便な思いをしながら、調査を続けていたのでした。


兎に角行く先々が上記の様相で、途中にトイレが無くて、用を足す事が非常に難しい為に、

朝、出張の旅に出かける前に全ての用を足しておかねば不安で仕方が無いのでした。


出来るだけ水分を取らないようにして、トイレの使用回数を減らす努力をしなければなりませんでした。


兎に角当時の中国のトイレ事情は最悪で、用を足すときの姿が丸見えで、

個室の形式にもなっておらず、隣との仕切り板も無いトイレも普通に存在していました。


私が中国に駐在してから、家内が私のところに訪ねてくることになった時に、

私が家内に言ったのは、

「スカートをはいて来るな」、「折り畳み傘は必須」、だということでした。


要は当時の中国のトイレ事情を考えると、

スカート姿でご婦人が用を足せる状態では全くありませんでしたし、

前後、左右が丸見えでしたので、最低限の事として、

女性が用を足すときには、折り畳み傘をさして、自分の姿を隠す必要があったからです。


中国人の女性はこの状態でのトイレで用を足す事は通常だったのでしょう。

隣の女性と冗談でも言いながら平気で用を足していました。


日本人には耐えられないトイレ事情でした。

また当時は、中国の通貨である「元」が2種類発行されていて、

片一方は「兌換券」で、もう片一方は「非兌換券」でした。


要は、外国の通貨とEXCHANGE 出来るのは、「兌換券」のみでして、

中国人が普段使用している通貨は全て「非兌換券」でしたので、

彼らは米ドルや香港ドルに中国元を交換出来ないのでした。


我々日本人はパスポートを見せて銀行で中国元を手に入れる事が出来ましたが、

この時、銀行が発行してくれる中国元は「兌換券」でした。


当時、広州市で活動をしている時に、

現地の中国人が、私が保有している「兌換券」を非常に欲しがって、

彼らの保有している「非兌換券」と交換してほしいと言うので、よく交換してあげたものです。


彼らは、兌換券「1」に対して、非兌換券「1.11.2」位で交換してほしいと言って来ていました。

それ程、「兌換券」は貴重品だったのです。


今の中国の経済力からしては、とても考えられない事でした。


また、街も汚かったですね。

至る所に「ゴミ」が捨てられていて、兎に角街中がゴミだらけと言う有様でしたし、

誰でもが平気でゴミを道路や歩道に「ポイ」と捨てていて、

マナーも何もあったものではありませんでした。


バスや、車の窓から「紙屑」を平気で捨てていましたから街がゴミで溢れる訳です。

またその行為自体を悪い事をしているとか、

マナー違反だとか、感じていないのですから、始末に負えません。


今は昔に比べると見違える程街から「ゴミ」は少なくなってきていますが、

まだどうもスッキリしません。

何となく街が薄汚く感じてしまいます。


加えて、埃っぽくていけません。

昔と違って、道路は舗装されています。

しかし、折角アスファルトで舗装されている道路なのですが、

土埃りが道路の両脇に溜まっていて、風が吹くと舞い上がって、埃っぽくなってしまいます。


街全体が、今でもこの様な感じです。


これに加えて「PM 2.5」の問題があります。

「土埃」と「PM 2.5」でどうしても中国の主要都市の空は晴れていてもいつも

どんよりと曇っているのが常です。


四川省の重慶など地元の住人が「この街には太陽は出ない」と言っていました。

私が中国に行かなくなって既に丸5年以上になりますので、

上述の状態より改善しているのか、それとも悪化しているのか、そのどちらも正しいのだと思います。


北京は共産党指導部の名誉に賭けてもクリーンにしないと面子が潰れますので、

改善していると思いますが、地方都市は悪化しているのでは無いのでしょうか?


そう言えば中国の話題で思い付きましたが、

今や中国では全く「プライバシー」が存在しなくなってきています。


国家が全ての国民のプライバシーを管理、統制、支配しています。

そして、国民の多くがこの事態を認識していないことが大問題なのです。

家族の構成内容は勿論の事、健康状態、財力、資産運用、趣味嗜好、思想信条、

に至るまでを国家に把握されていますし、チェックを受けています。


日本は世界中でこの状況からは一番遅れていますので

、国民の多くがSNSを非常に便利なものとして気楽に使っていますが、

まさにこの点に関しては、日本人の多くは「極楽とんぼ」だと言えます。


EU、特にドイツはこの点にいち早く注目している国ですので、

個人のプライバシーを保護する法律をいち早く成立させています。


所謂「GDPR」法です。

   

多分米国も相当にこの点では国家が国民の動向を密かに管理しているものと思われます。

21世紀の後半は、まさに「プライバシーレス」の時代の到来でしょうか?


「令和」を代表する表現として、「プライバシーレス」の「令和の時代」とならないことを祈ります。


さて今回のブログは此処までです。


次回もこの「夜に見る夢」の話の  続きをお届けしたいと思います。

楽しみにしておいて下さい。


それでは皆様におかれましてはくれぐれも健康に気を付けられて、

大病を罹患しないように食生活に気を配って、

十分に睡眠を取るように心がけて健康一番にてお過ごし下さい。


ではまた。

            201964







by Iwakawamasataka | 2019-06-02 15:39 | 脳卒中 | Comments(0)